せめて私にできること
どうしても出来ぬこと
063:剥がれ落ちてゆく熱をひとつひとつ手繰り寄せて
葵は現像を終えると暗室から出た。葛は朝から出かけたままいない。表向き写真館を共同経営している葵と葛だがそれは隠れ蓑であって二人ともが表立って言えないような裏の団体に所属している。その組織に横のつながりも縦のつながりもない。緻密な連携を要求されるかと思えば単独で臨まねばならぬこともある。それでいて葵は同居人でもある葛が今どういった仕事を抱えているかを知らない。葛からも言わないし葵からも訊かない。過干渉とみなされればどうなるか、それこそ運河に浮き沈みする羽目になるかもしれない。暗室から出た葵はその眩しさに目を眇めた。薄暗い中から出てきた双眸が眇められ瞳孔が収縮する。大陸は乾期と雨期で成り立ちその合間に腐敗の様な湿り気の時期を含む。乾期も近いこの時期は、腐敗の季節が終わるかのように腐ったものは乾燥してぱさつき砂塵へと還っていく。大陸の全てを照らさんと言わんばかりの日当たりに負けて葵は日除けを下ろした。もともと日焼けして傷んでは困るものばかりを扱う商売だ。表玄関は硝子戸だが常に目隠しを兼ねた布がくくりつけられている。
葛がねぐらを空けることは珍しくないとはいえ、お互いに熱の発散相手と定めた間であれば多少は気になる。素人女も商売女もどこで誰がつながっているか判らぬ状況の中での熱処理に困った二人はたがいに白羽を立てた。同性同士であれば後々になって知れるようなしくじりもあり得ない。同じ稼業であれば秘密の漏洩も多少は目こぼしされる。もっともそのあたりの葛のわきまえは厳しく、葵は葛が今までどんな仕事をこなしたか知らない。
「…閉めちゃおっかな」
なんとなく気が乗らぬ葵はあっさりと閉館の看板を下ろした。葛からのお叱りが怖いが二人の関係は上下ではないと葵は考えている。そも、不在の葛が葵にきちんと完全に時間通りになれと言っても、でもお前いなかったし、と言ってしまえばそれで終いだ。その場にいなかったものが言うべき文句や異議申し立ては意味を成さない。葵は早速小銭と札を少々、上着の隠しへじかに詰めて港湾部界隈へと繰り出していった。
頬を撫でる潮風はべたついてう溝の建物の壁は揃いのように白茶けて傷んでいる。補修した新しく真白な色と混じり合って何層もの重なりになる。生地を重ねる洋菓子があったなァと葵は茫洋と思った。毀れたら継ぎ足す。新旧が入り混じり正当と理不尽とが行き交うこの港湾部は活気があって葵は好きだ。茫洋として取りとめのない考えの中でそう言えば、と思い浮かぶことがある。葛はどんなに夜半になっても必ず写真館へ帰って来た。だがいつもどこかしらに怪我を負っていた。一週間前は右手。四日前は頬。昨日は左頬を腫らして唇さえ切れていた。握りしめる手を無理やり開かせたら煙草を押し付けたような跡があった。それでも葛は何も言わない。救急箱の中身が切れていなければそれでいい、と言って手当てさえ葵にさせてはくれなかった。
日本人形のように眉目秀麗と言った美しさを持つ葛に強く言われるとたじろぐくらいには葵は小市民だ。切れあがった眦と黒くて長く密に彩る睫毛。黒曜石の様な潤みを持つ双眸は玉眼の煌めきを有する。葵は自分の髪を一房つまんで川を覗き込む。さえない顔だな、とひとりごちる。日本人と言うには色が抜けた肉桂色の髪をバサバサ乱雑に切って襟足も短い。双眸も同じ肉桂色で時折、白人さんとの合いの子かい、と訊かれることがある。葵の記憶では母親は日本人であったし黒髪であった。父親が誰かは知らない。幼いころに不定期に訪れる男の人がきっと父だったのであろうが葵にはなんの知らせもなかった。その小父さんが来るたびに葵は外で遊んでいらっしゃいと家を緩やかに追い出され、遊び疲れて帰るころに家を辞する小父さんとはち合わせるのが常だった。あの小父さんだァれ? お母さんの、好きな人。返事はいつも煙に巻かれて母親は結局冥府にその答えを持って逝ってしまった。だからそれなりに異質な家庭環境であったから葵はその家庭がどんなものか、その人の性質がどんなものかを見抜く目だけは鍛えられた。葛はまともな家庭で育っている。それも、そう、由緒正しいとかそういった塵をかぶった歴史を次から次へと背負わせてくる古式ゆかしいご家庭の出だろう。その葛がこんな表沙汰に出来ない稼業に身をやつしているのが葵には意外でもあった。
葛がふらりと出てくる。路地裏だ。衣服が乱れている。一試合してきたって、かんじ。葵は出来るだけ軽薄を装って声をかけた。深刻な顔をする相手に深刻な顔をしたところで空気が重くなるだけだ。軽く聞いてやれば肩の荷が降ろせるかもしれない。
「こんなところで会うなんて珍しいねー、ご飯でもどう? オレがおごっちゃう」
「…あおい」
葵は見た。葛が隠した右手。煙草を押し付けた焼印を手当てした手だ。その手の包帯が灼き切れていた。焦げた端先がひらりと閃くのを葵は見のがさなかった。葛はあの焼印をきっと再度押されたのだ。包帯の上から。シャツも釦が飛んでひどい状態になっている。路地裏では通常の恰好であっても二人がねぐらを置く写真館界隈では大騒ぎされる部類だ。葛もそれを判っている。必死に隠そうと襟を掴む手が白い。力が入りすぎて関節が浮かび上がっている。殴られたのか口の端が切れて腫れている。唇だけが妙に紅く色づいて血色に艶めかしい。いつも着ている揃いの上下ではない。失くしたか。葵は自分の上着を脱ぐと葛に無理矢理着せた。見た目は細身であるのに葛の体は腕力も敏捷性も供えていて引き締まった細身であるから、やせ気味の葵の上着では少々大きさが合わぬ。それでも無理矢理着せると葵は葛の手を引いた。
「帰ろう。このなりでここにいるのは危険すぎるよ」
葛は逆らわなかった。
帰路につく間葛は何も言わない。葵も問わなかった。ただ葛の力になれない歯がゆさのようなものが募る。葛がはらはら落とす涙も花弁も葵は拾うことさえできず、探すことでさえ手いっぱいなのだ。組織は葵と葛の感情的な癒着を歓迎しないだろう。下手をすればそれを理由に放される可能性さえある。葵も葛も末端なのだ。それは双方共に承知していた。握りしめた手の火照りが葛の被った痛手を示す。切り傷か。殴打か。葛の体がほんのりと微熱を帯びていて外傷の影響がうかがい知れる。それでも葛はその白皙の美貌を崩さずに何でもないと葵の手を払おうとする。それでも葵は放さない。ここで放したら葛の全てが散り散りになってしまうかのようで、葛のタガを握っているとでも言わんばかりに葵の手には力が入った。ぎりり、と音がするほどのそれを葛は無機的な澄みきった黒い瞳で見つめていた。葛にも葵の恐れが感じ取れた。だから何も言わない。こうして心配してくれるということは葛とともにいたいと言うことであるから、誰かにこのようにして求められた経験のない葛はただそれに真っ正直にまっすぐに答えるしかなかった。疎ましいとは思わなかった。煩わしくなかった。珍しかった。俺などに、なぜ。それが葛の脳裏を埋めた。
ねぐらの写真館に戻る頃には夜も更けて、治安の安定した地域であればこそ人目にもつかない。住人達はすでに寝床の中だ。葵は葛を長椅子に座らせると救急箱を持ってきた。
「怪我したとこ全部教えて。手当てするから」
「いらん」
ぱん、と乾いた音が響いた。葵の振りあげられた腕が葛の頬を打ち据えた。軽く打っただけだが葛の肌が白いので紅い腫れは見た目以上に痛々しさを突きつけてくる。
「ごめん。でもオレ、葛のそういうとこ嫌いだ。全部自分で呑みこんで、オレにはいっこも分けてくれない。全部自分のことにしちゃって」
理不尽に責めている自覚がある。だから何も言い返さない葛に余計に憤りや哀しさを感じてしまう。オレは葛が落とす熱を拾うことさえできないのか。葛の落とす涙を拭ってやることも、抱き締めてやることも、怪我の手当てをしてやることも、オレには何にも出来ないんだと、無言の葛がそう言っているかのようで葵は泣き出したかった。
「葵、泣くな」
葛の焼き切れた包帯と生々しく肉の焼けた臭いがした。葛の指先が葵の頬や目元を拭う。葵は泣いた。無力感に泣いた。こうしたいたわりでさえ下手をすれば過干渉として二人の別居要因になるかもしれないのだ。だから葵は哀しかった。葛を労わることさえ満足にできない現状と葛は任務のたびに怪我を負ってくることとそれを阻止できないことと。辛い。哀しい。苦しい。もどかしい。――ふがい、ない
「ない、て…な、い……ッ」
ずず、と葵が洟をすすった。脳が灼けるように火照って熱い。目の奥がじんじんと痺れたように熱く熱を帯びた。洟水さえも際限なく垂れてくる。葵は無様だと判っていながら葛の前で泣いた。
「お前にそんな顔、させたくないんだが。どうすれば、いい?」
葛は心底判らないと言った顔で訊いた。葛が任務で怪我を負うのは自己責任の範囲内だと葛は思っている。だからその怪我に対して葵が何か負担や気遅れを感じることなどないのだ。そう言ってやればいい。だがそれを表す言葉があるほど葛の語彙は豊富ではない。明確な上下関係のみの中で育った葛の覚えたことは、はい、いいえ、すみません、ありがとうございます、完了しました。それくらいのものだ。そんな葛のために手をあげ、なおかつ泣いてさえくれる葵が葛は愛しかった。
葛の白い指先。細い。桜色の整えられながらも現像の過程で使う薬剤に荒れた指先。葵も同じだ。かさつく二人の指先が絡みあう。葵は頬へあてがわれた葛の手を包むようにして覆った。
「泣いてない」
「じゃあ、それでいい」
葛はいともあっさり退く。葵の双眸から、眦から目頭から涙があふれて頬を濡らした。宛がわれた葛の手や爪や指までも濡らす。行き場を失くした感情の全てが集束した涙だった。葵はしゃくりあげもせず静かに泣く。葛の眦にぽつりと雫が溜まる。葵が目で追うとそれを待っていたかのように容が毀れてつうっと葛の白い頬を伝った。
「葛、好きなんだ。お前が好きなんだよ。だからお前が怪我をするのが、オレ、辛いんだ…」
想い人に幸せであってほしいと願うのは普通だろう。葵は特殊な環境にいると知りながらそんな普遍にすがる。葛の意識は完全に特殊だ。葛は葵が任務で命を落とした時に泣けるかと言うことに対して戦慄した。こんなにも思ってくれる葵の喪失に泣くことさえできないかもしれない己はただの屍だ。
「俺も、お前は好きだ」
葵の顔がにぱっと笑う。泣き笑いだ。ぼろぼろと溢れる涙が葵の頬を伝う。
「うそつき。でも葛のそういう嘘なら、オレはいいよ」
敵わないな、と葛は笑んだ。
泣きたかった。
俺はお前に何もしてやれない
《了》